【秘密。】 より sample




 今にして思えば、容易に回避出来る、それは些細な失態の筈だったのだ。
 いつもだったら、たとえ目前に迫っていたとしても、人並み外れた身体能力で交わし、難なく避けることが出来た。
 迫りくるそれを、懐のトンファーで、真っ向から迎え撃つのもいい。
 間近まで迫りくる、そのぎりぎりの所で、交わすのだっていい。
 ともかく、最強を謳われ、自身でも、他の人間達とは生き物としての性質が違うのだと自負する雲雀にしてみれば、取り立てて問題にするのも馬鹿らしいくらい、なんでもない、些細な出来事の筈だったのだ。
 それが、思いがけず失態を招いた、何故かと自問してみれば、あの男のせいだと思い至る。
 イタリアマフィアだかなんだか知らないが、異国からやってきて、許可なく家庭教師を名乗り、認めてもいないのに師を気取り、ずかずかと踏み込んできた男。ディーノ。
 男が突然に口にした言葉に、雲雀は柄にもなく動揺したのだ。
 なおも言葉を重ねようとする男に、聞きたくないと背を向け、雲雀は足早にその場を立ち去ろうとした。
 とにかく一刻も早く、その場を立ち去りたかった。逃げたかった。
 だからだ。だから見えなかった。
 周りの景色や気配や……赤信号、そして、猛スピードで突っ込んでくる、大型トラックの気配。
 けたたましいクラクションを鳴らしながら、急ブレーキをかけながらも間に合わず、まっすぐに雲雀に向かってくるトラックの気配に。
 気付くことが出来なかったのだ。


 容易に回避出来る類の、それは些細な出来事の筈だった。
「恭弥……っ!」
 男の悲鳴のような怒声に、声する方に意識を傾けた雲雀は、目前に迫るトラックの前輪に、もはやそれが、間に合わないことを悟る。
 瞬間、全身を叩く強い衝撃がして、それから気が遠くなる痛みが雲雀を襲う。
 真っ白になる頭。トラックの急ブレーキの音、周囲の悲鳴、怒号、様々な音の洪水。
 そんなものを耳端に捕えながら、雲雀は大きく宙を舞い、地面へと叩きつけられた。
 世界が反転し、夢に落ちる瞬間の心許なさで意識が遠のいていくのをどこか冷静に感じながら、ふと雲雀は、ああ、自分は死ぬのだなと思った。
 これといった確信があるわけでもないし、実感もなかったが、昔からやたらと、勘のようなものが冴えていた。
 これから起こるであろう様々な事を、曖昧ではあったが予感出来たり、動物並みの嗅覚で、嗅ぎわけることが出来た。
 だからこそわかる。
 ああ、自分は死ぬのだ。
 そうして、続けて浮かんできたのは、あの男の……ディーノの満面の笑みだった。
 戦っているときのそれでも、すましている時のそれでもない。
 ただ、顔をくしゃくしゃにして笑う、男の笑み。
 見ていて、呆れて力が抜ける、無防備で構えるところのない、あまりにも、らしすぎる男の笑みだった。
 それを脳裏に感じながら、ふと、雲雀は思う。
 聞きたくないと背を向け、耳を塞いだ男の言葉を、あの時逃げずに、聞いていたら。
 そうしたらまた、違う形はあったのだろうか。
 咄嗟の事に逃げだすしかなかった。
 耳を塞ぐしかできなかった。
 あの時、逃げずに向かうことがあったなら。
 そうしたらもう少し、違う結果はあったのだろうか。
 このような結果には、ならなかったのだろうかと。



 その時、一体雲雀の身に何が起きて、世界は、どう動いたのか。
 ぐるりと反転する世界と薄れゆく意識、そうしてまわる世界。
 ゆっくりと回転しながら、まるで木の葉が軌道を描いて落ちていくように、たゆたう水のように、落ちていく。意識下へ落ちていく感覚。



 どこか懐かしく、どこかまた温かい。
 それは不思議に、穏やかで夕凪のような、じんわりと染み込むような感覚だった。






サカナニナレナイサカナ ■ 畝ちうさ