02. 2day :9:20

結局倒れこむようにして深く眠りについた雲雀は、朝まで一度も目を覚ますことはなかった。
目を覚ましてもすぐに、そこがどこかは思い出せなかった。
見慣れない天井と慣れない気配。
懸命に記憶を手繰りつつ、ドアを押し開いたら、開けた先、リビングでは、すでに起きだしているディーノが、部下達数人と、携帯を片手になにやら話し込んでいる風だった。
ディーノが、すぐに雲雀に気付き、片手を挙げて合図してきた。

「お、起きたか。Good morning 恭弥。顔、洗って来いよ。モーニングにしよう。着替えも、クローゼットに用意しておいたから」

言われて部屋のクローゼットを改めてみれば、なるほど、昨夜、到着してから、流れるように戦ってそのまま眠りについた、その間にも、色々と準備は揃えられていた、ということか。
こういった、用意周到さは嫌いではない。
雲雀は、そつのない流れを心地よく思いながら、適当に選んだ一枚に袖を通す。
用意を終え、リビングへと出て行くと、すっかり仕度が揃えられた朝食の一式と、昨夜と同じく、そこへ立膝でソファーに沈み込んでいるディーノが出迎えた。

「似合ってるな。やっぱりだ。恭弥には、黒が似合うと思ってた。さすがオレの見立てだな」

ということは、ディーノ自らが選んだというわけか。
空港で出迎えてからは殆ど始終一緒にいるというのに、一体いつどのタイミングでそれを手配していたのか。
さすがの雲雀も、少しだけ、男の采配に舌を巻く思いだった。







昨夜と同じく、ずらりと並べられたルームサービスの朝食は、パンにサラダ、卵料理など、イタリア料理というよりはどちらかというとアメリカ式ブレックファーストに近かった。
それらを目の前に、ディーノの言葉が続く。

「お前は食事を軽くみてるようだが、食は体を作る。たとえばこの、一見なんの法則もなく並べられたかに思える朝食にだって、すべて、栄養のバランスが考えられている。炭水化物に乳製品、卵、タンパク質。朝食をきちんと取ると取らないとでは、その日一日の動きが違ってくる。まさに食は、体を作る、だな」

言いながらも、忙しなく男のフォークは、次々と食べ物を口へと運んでいく。
まったく、よく喋り、そしてよく食べる男だ。
雲雀は、黙々と食事を続ける。

「ただ、無節操に摂取すればいいってもんじゃないぞ? バランスが大事だ。ジャポーネはただでさえ、炭水化物に偏りがちだと聞いている。農耕民族の名残なんだろうが、体を作りたければ、たんぱく質の摂取は欠かせない。早い話、肉だ。肉を食え」

カチャと音を立てて、雲雀がフォークを置いた。

「……どうした?」

「あなたうるさい。食欲が失せたよ」

「まあ、そう言うなって」

「もういらない」

「まだ全然食ってねーだろうが。体作りは大事だぞー。オレに勝ちたいんだろ?」

まるで、にやりとでも笑うかのように付け加えられた最後の一言に、雲雀は僅かな間のあと、おもむろに置いたはずのフォークを手に取り、再び食事を再開する。
あまりといえばあまりに判りやすいそれに、ディーノは、一瞬押し黙り、盛大に吹き出す。
やがて、いい加減痺れを切らして雲雀が殴りつけるまで、しばし、ディーノの堪えたような笑いは、続いたのだった。








食事を終えてからは、相変わらずの阿吽の呼吸で、部下の用意した車にさっさと乗り込み、ディーノは雲雀を伴って車を発進させる。
広い車内の後方座席、なぜか隣同士に沈み込み、車は走ること三十分少々。
中世を思わせる特徴的なヨーロッパの町並みを抜け、連れてこられたのは、見上げるほどに大きな建物、それこそが、ミラノのシンボル的建物である、大聖堂ドゥオーモだった。

全長一四八m、幅九一mと、巨大な建造物であるが、何よりもドゥオーモを際だたせているのは、白大理石でおおわれたゴシック様式の壮麗な外観であると言われている。
壁面や尖塔に彫り込まれた、まるでレース編みのようにも見える細かく表情豊かな彫刻が、高さを強調するとともに、外観に彫りの深さをも与えている。
まさに、圧巻、と言うしかない壮大さだった。

「ミラノ誇る、大聖堂ドゥオーモ。一四世紀後半に建築が始まり、今の形になるまでおよそ五〇〇年かかったと言われている。イタリアでは二番目に、世界でも三番目に大きいとされる、キリスト教大聖堂、だな」

車から降り立ち、ディーノの誘導するまま、建物の中へと入っていく。
横付けした車から降りて、大聖堂の入り口まで歩くのでさえ、けっこうな距離があったが、中に入ってからも、その巨大さに圧倒されるしかなかった。
内部は、よく見る教会の内装を、さらに壮大にしたようなもので、ステンドグラスや十字架、ミサのための椅子やパイプオルガン等があり、ちょうどタイミングよく、ミサの最中だったようで、祈りを捧げている老夫婦や、流れてくるパイプオルガンの音色を聞くことが出来た。
無神論の雲雀だったが、それなりに空気に呑まれるということはあって、どこか気圧される気持ちで、立ち竦む。
それをさりげない仕草でもって誘導しながら、辺りを憚る意味もあるのだろう、抑えたディーノの言葉が続く。

「圧倒されるだろ。さすがのオレでさえ、ここ来るときは、いつでも気持ちが引き締まる。これだけの建造物だからな」

「……よく、来るの」

「あ? まあなあ。オレ、クリスチャンだし」

「……冗談」

「嘘じゃねえって。知らね? マフィアは、信仰深いヤツ、多いんだよ。後ろめたいことしてっから、かね。クリスチャンが多いんだ」

言ってどこか自嘲げに笑うそれは、どこかそんな自分たちを、自分たちの立場をも、嘲笑っているかのようにも見えた。

「ジャポーネは確か、無神論だったよな。恭弥も、やっぱ、そうなのか?」

「……無神、なわけではないよ。単に崇める唯一の神を持たないだけだ。日本には、あちこちに神様がいるんだ」

「……へえ? どういうことだ?」

「物にはそれぞれ、神様が宿っている。八百万の神々という。キリストのような、絶対無比の神がいないだけだ」

「『La città incantata』! 千と千尋の神隠しの世界かっ!」

ディーノは、思わず、といったように声の調子を上げ、すぐさま厳粛なその場の空気に似つかわしくないと反省したのか、声を潜めつつ、けれど興奮気味に言葉を続ける。

「知ってるぜっ! びっくりしたんだ。カルチャーショックものだった。だって、ゴミの神様だもんな。そんなんにまで神様がいるんじゃあ、ジャポーネでは、悪いことは出来ねえよな」

「……そうでもないよ」

今、日本でそんなことを思ってる人間は、殆どいないに等しいのかもしれない。
少なくとも、昔を懐かしむ古きよき時代の呪縛に近い、雲雀にとってでさえ、どこか遠い世界のことのように思わるのだった。

「そっか……寂しいもんだな」

別に、彼にどう関わってくることでもないというのに、ディーノの物言いは、まるで、心底、惜しみ悲しんでいるようにも取れた。
基本、あまり人の話を聞くようなタイプにも見えず、実際、マフィアのボスとしての日常が彼をそうさせるのだろうが、とかく自分勝手に振舞いがちのように見える。
けれど、こうやって話してみると、ディーノはほんの些細なことにいちいち感動したり、表情を変えたり、相手に思い入れて気持ちさえも曇らせる。
そんなこととは無縁の世界で生きてきた雲雀には、男のそれが、いちいち物珍しく、鬱陶しい。
かといって、いらない、目障りだと切り捨てられるかというと、そうでもない。
なによりも、戦いたい、という欲求から、男の大概に目を瞑る癖のようなものが出来てしまっているのかもしれないが、雲雀にとって珍しく、男のあれこれは、観察するに値する対象だった。
こんな感情を持つこと自体が、まず雲雀には初めてのことだ。
つくづく、不思議な男だった。

「神に縋る行為は馬鹿らしいし、大嫌いだ。でも、心の支え、拠り所の一つが神だっていうのは……意外に悪くない」

雲雀が、珍しく饒舌に、呟くように言葉を洩らす。
傍らで聞きながら、ふとディーノが、くすりと笑った。
それまでの流れのように、聞き流すには勘に触る笑いに、雲雀がふっと眉をしかめる。

「……なに」

「いや、恭弥の、悪くない、って、好きって意味なのかなーって思って」

「……なに馬鹿なこと言ってるの。咬み殺すよ」

「なあ、オレは? オレのことは、どう思う?」

「大嫌いだよ」

間髪入れずに即答をしたら、ディーノはふっと表情を緩めた。
それは、嫌いと言われて喜ぶなんてマゾとしか思えない、嬉しげな笑みだった。

「そりゃあいい。恭弥の嫌いは、好きの紙一重だもんな。無関心よりも、ずっといい」

まるで、わからない男だった。

「そうだ、恭弥っ、ジェラード食べようぜ、ジェラードっ!」

「別にいらない」

「まあ、そう言うなって。あ、だったら、あれやろうぜっ。あそこのタイルの部分にかかとをつけて一回転すると、願いが叶うんだ。このアーケードでは有名なんだぜ?」

「僕の願いは、あなたと戦いたい。それだけだよ……ねえ、昨日の続きは」

「まあ、それは後々、にさ……うおっ、恭弥! 見ろよ! あれっ!すっげーなー」

殆ど、子供のようにはしゃぐディーノである。
呆れて、言葉も出ない。
けれど、雲雀は気づいていた。
先ほどから……正確には、ホテルを出た瞬間からずっと、さりげなくだが、確実な意図を持って、自分たちを取り囲むようにして、外部との間に立ち、絶えず周囲を気にしている、黒尽くめのスーツの部下達。
そして、それを当たり前のように受けているディーノ。
見渡せば、部下たちの壁越しに、物々しいなりに遠巻きにそれを見やる市民と、それだけでない不穏な空気をも、感じ取ることが出来る。


ああ、これがイタリアマフィアかと。

雲雀は思っていた。







「あなたたちの組織を見くびっていたよ」

「あ?」

結局、一通りディーノの導くままに、観光にとあちらこちらを連れまわされた雲雀だった。
さすがに、時差ボケも手伝ってか、疲労感が全身を支配するのをそのままに、静かに走る車の後方座席、座り心地のいい背もたれに深く沈み込む。
その隣、殆ど密着する距離に座る男は、ただでさえだらしない顔をいっそう緩め、雲雀の凭れる背もたれに腕をかけていた。
必要以上に触れてくる男の腕を、いちいち振り払うのも馬鹿らしくなっていた。
それくらい、男はさりげなくの自然なスキンシップが絶妙だった。
今も、ぴったりとくっつくように隣に座ってくる男を、押しのけるのもいい加減疲れ果てていて、そのままにさせておく。
男の言葉を待たず、雲雀は続けた。

「ただ、群れているだけの草食動物かと思っていた」

「あ? ……ああ」

何のことを言っているのか分かったのだろう、ディーノはくすりと笑った。

「まあ、さすがになあ。五千人の組織は、別に嘘じゃねえからなあ」

言いつつも、まるで緊張感を感じさせない気楽さで笑うと、雲雀の髪に手を伸ばしてきて、指を絡めると触れるだけのキスをした。

「……ねえ……イタリア男って、みんなこうなの?」

雲雀は、こちらに来て以来、ずっと思っていたことを直球で口にする。
不必要に触れてくることも、相手との距離の図り方も、まるで自分の常識とは違う。
何度、辞めろと抵抗しても辞めないどころか、一分後には忘れたかのように、さらに密着してくる。
いい加減、これがイタリアの常識なのかと、うんざりする思いで聞いていた。
ディーノは、突然の切り込みに、さすがにしばし言葉を継げないでいる。
殆ど、呟くように、洩らしていた。

「つーか、そう、正面切って聞かれても、な……」

珍しく動揺を隠そうともせず、ディーノは、失笑とも苦笑とも取れる、不思議な顔をした。

「ま、まあ、とにかく、楽しもうぜ。恭弥がこっちにいられる、7days楽しいヴァカンスにしよう」

まるで誤魔化すかのように、にやりと笑って見せるのだった。