03. 3day 11:00

「おい、ボス、いるか? ……って……おい」

いつもの流れだけに、殆どノックもせずにドアを押し開けた、ディーノ第一の側近であるロマーリオは、俯くように手元の書類に集中しながら中に入ってきて、顔を上げてすぐさま、唖然と立ち尽くした。

「……なにしてんだ? あんた」

「ああ?」

キングサイズのベットの上、胡坐のような姿勢のディーノは、手元に集中しながら、空返事を寄越す。
背後から、小さく丸くなっている雲雀を抱きかかえるようにして、手を伸ばし、なにやら手元に集中している。
いつになく真剣な表情と緊迫感で、よく見れば、ディーノは懸命に、雲雀の足の爪磨きをしていた。
向かい合ってやれば、さぞかし楽な姿勢で出来るだろうに、何故か、体育座りのような形でベットの上、丸く座る雲雀を、背後からすっぽりと腕の中に抱きかかえている。
明らかな体格差があるとはいえ、やりにくそうに、だからこその集中なのだろう、ディーノは手元のヤスリで、雲雀の足の爪を丹念に磨いていた。
当の雲雀は、といえば、すっかり、全身を背後のディーノに預け、凭れ掛かるようにして、こちらも手元の文庫本に集中している。
ディーノの緊迫感とは対照的なまでの、緩さだ。
ロマーリオは、盛大にため息をついた。

「情けねえ……五千人の部下を束ねるマフィアのボスが、ガキの爪磨きたあ……愛人にやらせることはあっても、自らやってやってる姿なんざ、初めて見たぞ」

「だって、やってやんねーと、恭弥、伸ばしっぱなしなんだもんよ……っと……ほらっ、出来たぞ、恭弥」

言って、ヤスリの削りカスで白くなった箇所を、ふっと息を吹きかけて、終わりを告げる。
しかし、雲雀は、ディーノから離れようとしない。

「ん? どした? 眠いのか?」

背後から抱きしめた姿勢のまま、顔を覗き込むようにして、囁くディーノの顔は呆れるくらいに甘い。
それに対し、雲雀は依然として文庫本から顔をあげることなく、

「……うるさい……あとちょっとだから、黙っててよ」

本を読み終えるまでは、こうしてろ、ということか。
ロマーリオは、再び大きくため息をついた。

「……やってらんねーな……ボス、例の件だが、連絡来てるぞ」

「あ? ……ああ、了解。その件は引き続き、続行頼む」

依然、甘ったるい表情のまま、ディーノが口だけで言葉を返してくる。

「ガンビーノの奴らは? どうする?」

「あれは放っておいても大丈夫だろ。奴等は小物だ。キャバッローネ相手に動ける度胸はねえよ」

「そうは言うが、ゴスペルファミリーがバックについてるぞ」

「だからだよ。忘れたか? ゴスペルには大きな貸しがある。いまさらカルマを破る度胸があるなら、ゴスペルはもっと、でっかくなってるさ」

「はは、確かに違いねえ」

ロマーリオは、がははと笑う。

「車は、いつ、まわせばいい?」

「あと二十分後に頼む」

「si ボス」

言って、軽く合図をすると、出て行くロマーリオ。
その間も、雲雀は聞いているのかいないのか、文庫本に視線を落としたまま、ぴくりとも動かなかった。







正確に二十分後、ホテルの正面玄関に回された車に乗り込み、相変わらず行き先を告げぬまま、車が静かに滑り出した。
程なくついたのは、中世ヨーロッパを感じさせる古めかしい建物で、勝手知ったるで中に入っていくディーノが促した先は、喧騒溢れる、バールのような店作りだった。
小太りのおかみとは顔見知りなのだろう。ディーノが気安く言葉を交わしながら、さっさと奥へと入っていく。
賑やかしい店内は、雲雀にとっては群れている以外の何物でもなく、こちらに来てからというものの、戦いたい、ただそれだけの理由で色々なことに目を瞑ってきた雲雀も、さすがに、目を瞑りかねるもので、さてどうしてくれよう、と足を止めかけたら、気づいたディーノが、すかさずフォローを入れてきた。

「奥が、静かで落ち着ける個室になってる。大丈夫だ。悪いようにはしねえから」

なるほど、その言葉に嘘はなかったようで、奥に足を踏み入れた途端、先ほどまでの喧騒が嘘のように、静かで、また、建物特有の石造りの内装もあってか、ひんやりとどこか涼しく、居心地としては悪くない空間が、そこにはあった。
二人で囲むには、若干大きなテーブルに、次々と料理が運び込まれてくる。
ホテルのルームサービス以外では、初めての外での食事となった。
昼ではあったが、これでもか、と、イタリア料理の数々が運び込まれてきた。
店の内装からして予測は出来たが、けして高級、といった盛り付けではない。
けれど、悪いようにはしねえ、と、ディーノが断言するように、盛り付けられた料理の数々からは、どれも美味しそうな匂いが立ち昇っている。
時差ボケや慣れない土地での疲れで、食欲がなくなるかと思っていたが、着いて早々に戦い、それからも連日適度に動き回っているからか、幸いにも食欲は旺盛だった。
元々食にあまり興味がなく、ともすれば食事を忘れることなどしょっちゅうの雲雀としては、驚異的なことだった。

「イタリア料理って言ったらトマト、ってくらい、こっちの料理にトマトは欠かせないんだ。それ以外ってことになると、数は大分限られちまうんだが……でもどれも、お勧めの料理だ。美味いぞー。遠慮せずに、どんどん食えよな」

言われなくても、そのつもりだった。
イタリア料理と一口に言っても、その中身は様々だ。
地方により、特徴があり、ここミラノでは、パスタというよりはどちらかというと、米料理が主流なのだという。
その辺りも馴染みが深く、今までの中では一番、雲雀にとって、取りやすい食事となった。
とはいえ、気がかりの先はいくつだってある。
やっぱり一度は咬み殺しておかないと、気が晴れないのかもしれない。
そう思い身じろぎしたら、すかさず気付いたディーノが、食事を口へ運ぶ手を止めた。

「……ん? どうした?」

「落ち着かないんだけど」

雲雀の呟きに、ディーノは視線の先を見、ああ、あれか、と声を上げる。
個室の入口付近に、こちらからは背を向けるようにして立つ、黒スーツの部下達数名。
気さくに昼食を、というわりには、どこか物々しかった。
ディーノは苦笑した。
それは、雲雀が言いたい事をすべて承知した上での笑いだった。

「悪いな。少しだけ我慢してくれ」

「こんな、仰々しかった?」

日本での姿は、確かに部下をやたらと引き連れてはいたが、ここまでの仰々しさはなかったと記憶している。
雲雀の問いかけに、ディーノはひょいっと肩を竦めてみせた。

「ジャポーネとこっちでは、違うからなー。一応、この辺りはシマとはいえ、最近なにかと物騒でな。まあ、すぐ慣れるさ」

「…もういらない」

言って、雲雀はことりとフォークを置く。

「なんだ、食欲ないのか」

「それよりも、やろうよ、ディーノ」

「……ワァオ、挑発的なセリフ」

ディーノは、ニヤリと笑って見せた。

「いい加減、あなたのその逃げ口上にも飽きたよ。戦ってくれるんだろ? そのために僕は来たんだ」

「かわいくねえなあ。嘘でも、あなたに会いに来たんだ、ぐらい言えないもんかね」

「死ねば」

「いいぜ、今日の観光はとりやめだ。ホテルの中庭があったろ、そこで手合わせしてやる」

ディーノの合図に、入口に控えていた男が、なにやら手配をするためだろう、すっと消えていった。

「その代わり一つ、条件を出す。交換条件といってもいいな」

「なにそれ。そんなのは知らないよ」

「そうはいくか。オレは戦いを望んではいない。なのにお前は戦えと言う。ならば、交換条件を出すのは、当たり前の取引だろう」

「……条件は、なに」

「戦いは一日一回まで。それと、お前の性格からして、絶対に負けたは言わないだろうから、日が暮れた時点で勝負は終わりだ。その時点でダメージのでかかった方が、負けとする。そして、敗者は勝者の言うことをなんでも聞く。どうだ」

「構わないよ。負ける気はしないから」

「言ってくれるねえ」

ディーノはニヤリと笑った。







食事を終え、相変わらず親しげに店のおかみとディーノが言葉を交わし、店を出た途端、何かを喚くようにして駆け寄ってきた存在があった。
瞬時にして、周囲の黒服の部下達に緊張が走り、雲雀自身も無意識に懐のトンファーに手を伸ばしていた。
けれど、ディーノだけは、実に鷹揚と構えていて、よっと親しげに声を掛ける。
見ると、それは、年の頃にして十にも満たない子供だった。
少し離れた所では、大小様々な年頃、背格好の子供達が、遠巻きにこちらを伺うようにしている。
子供は、親しげな表情で何かを訴えかけるように口早に喚いていて、ディーノはそれを、軽く笑いながら受け答えしている。
あれは何事かと、唖然と見送る雲雀に、隣にいたロマーリオが、流暢な日本語で説明をしてきた。

「ジプシーの子供だ。一度、金あげちまったら、味しめたみてえで、ボスを見かける度に駆け寄ってくる」

「ジプシー?」

聞き慣れない言葉に、呟くように聞き返す雲雀に、ロマーリオは、ああ、と小さく頷いて、

「ジャポーネにはねえのか。……物乞いだ。正確には国境辺りから流れてくる移民だな。大人子供揃って物乞いで生計立ててやがる」

言われて、改めて見てみれば、子供はどこか貧しいなりをしていて、街中を歩いている市民とは、明らかに差があった。
けれど子供は、眩しいまでの笑みで、ディーノに何かをまくし立てるようにして、話している。
まるでしばらく会っていなかった友人との再会に、あれもこれもと、話が尽きないでいる、熱に浮かされたかのようにさえ見える。
確かに、日本での、ツナ達への接し方からも分かるように、ただでさえ、気さくさを滲ませる男ではあったがそれにしたって、仮にもマフィアである。
こうも気安く話しかけられるとは、ジプシーとはなんと命知らずなのか。
半ば呆れるようにして、ちらりと見やり、雲雀は、ああなるほど、と思った。
子供に負けず劣らずの、穏やかな、笑みさえ浮かべたディーノの間抜けな表情が、そこにはあった。

「……ねえ。ボスって、ああいうもんなの」

傍にいたロマーリオに聞く。

「あ?」

ロマーリオは、訝しげに雲雀の視線の先を見、合点がいったように、あれか、と苦笑した。

「ボスのありゃあ、特別だな。困ったもんだ」

「認めては、いないんだ」

「そりゃあなあ。こうも気安く動かれたんじゃあ、こっちの身がもたん」

肩を竦める。
その様子は、心底困り果てていることを、如実に伝えていた。

「常に視線があるんだね。あそこの柱の影と……あっちの店の軒下、アーケードの裏、あと……あそこ」

雲雀の指差す先、ロマーリオは弾かれたように視線を送り、そして、ヒューと口笛を吹いた。

「驚いた。最後のは、さすがに気づかなかったぞ」

「あれだけ、殺気放ってれば、嫌でも分かる。……いつもこうなの」

「まあな。特に最近は、対抗勢力が、ちとうるさくてな」

「あの人は知ってるの」

「知らないわけないだろうが。ボスは、お前並に鋭いぜ」

「それであの、へなちょこぶり?」

「それに関してはまあ、否定はしねーな」

ははは、と笑うロマーリオ。

「あれでいて、いざって時は、誰よりも強い」

「知ってるよ。嫌ってほど」

「はは、まだ勝てねえんだもんな」

瞬時にして殺気を滲ませる雲雀に、ロマーリオは、慌てたようにホールドアップを取り、降参の意を示し、小さく笑うのだった。









「相変わらず、脇がガラ空きだぞ」

そう言って、あっという間に、距離を詰めてきたディーノの鞭を、ぎりぎりで交わしながら、雲雀は構えていたトンファーを、大きく振りかぶる。

「そういうあなたは、足元が甘い……っ」

雲雀の渾身の一撃は、しかし寸前でひらりとかわされる。
しまった、と振りかぶったトンファーを引き寄せようとするより早く、鞭の先が伸びてきて、雲雀の右手の甲を打った。
強くはないが、痺れるような痛みが走り、咄嗟に、トンファーを落とすまいと、体自体を引いたところで、待ち構えていたように伸ばされた鞭の軌道の先で、背中を強く打ち付けられ、反動で前のめりになり、片膝をついていた。

「また同じ手だ。……おい、ちったあ反省しろ? お前の弱点はそこだ。いつも、同じ手でやられてる」

「まだ二度目だ。次こそは返す……っ」

「ばーか、その二度目がないってーのっ!」

地についたトンファーを、片足で踏みつけるようにして、ディーノが高らかに言い放つ。

「実戦で待ったはない。今のままじゃ、確実にやられるぞ?」

「う、る……さい……っ!」

言いざま、なぎ払ったトンファーは、当たりはしなかったものの、ディーノの重心を崩すには十分だった。

「……っと! そうだ、その調子だっ。常に油断をするな、全神経を研ぎすませろっ、気を抜けばやられるぞっ。遊びじゃねえんだ、オレを、跪かせてみろ……っ!」

雲雀の、息もつかせぬ攻撃の数々をも、いとも容易く交わしながら、ディーノ自身は息一つ乱さず、鞭を繰り出し続けた。

「はい、ゲームオーバー」

倒れこむ雲雀に覆いかぶさるようにして、ディーノは、雲雀の首元に鞭の柄を押さえつけつつ、真上から見下ろし、ニヤリと笑った。
雲雀は、荒い息をそのままに、ディーノを睨み付ける。

「んな目で睨んでも、だーめ。終わりだ。約束したろ? 日が暮れたら終わりだって」

「まだ、終わってないっ!」

「そういう、負けん気の強さ、嫌いじゃないけどな。終わりだ。さ、シャワー浴びて、出掛けようぜ。今夜はイタリア誇るオペラ座の観劇だ」

「興味ない」

「これも約束したはずだぜ? ゲームオーバー時点で、ダメージの大きかった方が、その日一日、なんでも言うこと聞くって」

雲雀は、ぐっと押し黙る。

「まあ、そうむくれるなって。うまいもん食わしてやる。スカラ座の裏に、オレの行きつけのいい店があるんだ。恭弥もきっと気に入る。ガキの頃からのお気に入りでさ。もっとも、その頃から知られてるだけに、オーナーはいまだにオレのことガキ扱いするんだけどな」

言って笑うが、雲雀は疲れのあまり、何を言い返す気にもなれず、荒い息を整えるのに躍起になっている。
するとディーノが、すっと真上から手を伸ばしてきたので、雲雀はしばし迷いつつも、その手を取る事にする。
真上からだったとはいえ、手を取った瞬間、まるで力を入れたことを感じさせない気楽さで、ディーノは雲雀を一気に立ち上がらせ、まるで当たり前だとでも言わんばかりの自然さで、雲雀の腰に手を回し、抱きかかえるようにして歩き出した。
疲れているから、半ば凭れ掛かるようなその姿勢が楽で、だから雲雀は、抵抗せずそのままにさせている。

「ガキの頃っていえば、面白い話があってさ」

こちらに来てから気づいたことなのだが、この人の声は意外に悪くない、と雲雀は思う。
咬み殺したくなるようなやかましい声とも違う。
殴りつけたくなるような卑屈な声とも違う。
言ってみれば、聞き流しても耳障りにならない程度の無害さ。
害なすものは人であれ、物であれ大嫌いだが、この人はそれには当てはまらない。
だから雲雀は、抵抗せずに聞いている。

「クロスタータって分かるか? あれが、オレ、好きでさあ」

「クロスタータ?」

「ジャポーネには、ねえのかな? ピスケット生地にジャムを乗せて、パイ風に焼いたお菓子、ってのかな」

「アップルパイ、みたいなもの? だったらあるよ」

「それが、好きで好きでたまんなくて、でも、食いすぎは体に悪いってんで、ロマーリオのヤツと、大喧嘩。たかだか菓子ごときで、オレら、半年近く、口きかなかったんだぜ?」

言って、笑う。
雲雀は、ふっと肩を竦めた。

「あなたの話には、いつでも彼が出てくるんだね」

「え? あ、ロマーリオ?」

「彼は、よく目が行き届いて、身をわきまえ、忠義に厚い。いい部下だ。彼なら、うちに引き取ってあげてもいいよ」

「うち……って……風紀委員?」

その響きに、どこか笑いが含まれているように感じ取れ、雲雀はむっとする。

「あなたの群れよりは優秀だよ」

「はは、まあ、確かになあ。恭弥についていけるくらいだもんなあ」

本格的にむっとし始める雲雀に、ディーノは笑う。

「はは、悪い。怒ったか? なんだよ、拗ねるなよー、恭弥ぁー」

「……拗ねてなんかない」

「拗ねてるじゃねえかよ、ったく、かーわいいなあ」

言って、手を伸ばしてくると、雲雀の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
振り払おうかとも思ったが、やったらまた、さらに調子に乗るであろう事が容易に想像できたので、面倒で、雲雀は目を閉じ、されるがままになっている。
そうしたら、ふと気配が変わり、なにを? と目を開けたら、見上げた先、驚く程に真剣な眼をしたディーノの、恐ろしいまでの表情があった。
ああ、と思うまでもなく、端正な顔が近づいてきて、最初はふれるようにして、ディーノのそれが、雲雀の唇を掠め取るようにしてきた。
触れるか触れないかのギリギリの所で、迷うように止まったのは一瞬のことで、次の瞬間には、ぐっと深く入り込むようにして、ディーノの唇が、重なってくる。
それは、息もつけないような、深い交わりだった。
咄嗟に逃げかける雲雀に、追いすがるように、真上から、ディーノが体ごと覆いかぶさってくる。
顎を強く掴まれ、強引に口が開いたところを、ぐっと、熱い何かが入り込んでくる。
ぬるりとしたそれが気持ち悪くて咄嗟に体ごと引いたが、それさえをも飲み込むようにして、男のそれが、雲雀の口内を思うがまま、暴れまわる。
逃げようと喉の奥に引きかけた舌が、男のそれと触れた瞬間、雲雀の全身を痺れが駆け抜け、あ、と思ったら、舌を強く吸われていた。
引っ張られるような感覚と、互いの表面が擦れあうざらざらとした感じが、雲雀から抵抗を奪う。
気付けば、男の誘導に倣うようにして、舌を絡めあっていた。
何度も角度を変え、離れては深く交わる。濡れた音が、酷く鮮明に聞こえてくる。
息苦しささえ覚えるほどの交わりあいのあと、ゆっくりと、名残惜しげに男の唇が離れていき、雲雀は、思わず荒くなった息をそのままに、濡れる男の唇を見ていた。
呆然と、していた。

「……今の……なに……?」

ディーノは、けれど、困ったような顔をしただけだった。
そうだ。そうだった。
雲雀は思い出す。
自分は、それを突き止めるために、わざわざイタリアくんだりまでやってきたのだった。

「……ねえ……今の……」

しかしディーノは、答える気はないようだった。
さっさと身を離すと、

「さ、シャワーを浴びて、出掛けるぞ。三十分後に車を回してもらうからな」

言って、なんでもないように、にかっと笑う笑みは、大人のずるさそのものだった。







同じことが、一度だけあった。
あれはリング争奪戦の、修行と称する、ディーノとの戦いの最中でのことだった。
渾身の力で振り下ろした筈の一撃は、難なく交わされ、逆に、半動力で地に組み敷かれてからは、もはや、指一本動かすことは出来なかった。
荒い息をつき、屋上のコンクリートの上、仰向けの姿勢のままで転がる雲雀に、それを上から見下ろしながら、男は、トンファーを足で踏みつけ、ニヤリと笑った。

「はーい、ジ・エンド」

見下ろすニヤけた笑みが憎たらしくて、雲雀は目を閉じ、やり過ごそうとする。
突然、何の前触れもなくやってきた、金髪のやけに派手な身なりをした男は、自らを、家庭教師と名乗った。
家庭教師など、頼んだ覚えはないし、そもそも関係者以外の学内への立ち入りを許した覚えもない。
それで、問答無用で咬み殺そうとしたのだったが、最初の一撃をひらりといとも容易く交わした男に、この男を排除するのは容易ではないと直感した。
そしてそれはその通りで、手を変え品を変え、男はありとあらゆるパターンから、攻撃を仕掛けてくる。
一瞬で終わるかに思えたそれが、二日、三日と続き、男は律儀にも、ある一定の時間戦うと、まるで授業の終わりを告げる鐘と同時に出て行く教師さながら、時間になると突然戦いを切り上げて退散していく。
なかなかつかない決着と、まるで意図の掴めない男の行動に、けれど雲雀が切れずにいられたのは、やはり、手加減なしに本格的な戦いを仕掛けられることが、雲雀に初めてに近い興奮を与えたがためか。
男は実に、雲雀にとって申し分のない、好戦者だった。
目を閉じ、息を整えようとする雲雀に、気配が動いて、ディーノが 傍らにしゃがみこみ、手を伸ばしてきた。

「大分うまくなったな。あの時の足払いはよかった」

頬を撫でるようにして、ディーノの手が伸びてくる。
目を閉じたままで振り払ったが、懲りずに再び伸びてきて、先程のやり取りで切れた、頬のかすり傷を、そっと撫で上げてくる。

「ただ、その後が惜しい。お前みたくウェイトの弱いヤツがあれをやっても効果はない。相手に踏ん張られたら、アウトだ。それよりも、呼吸を読むんだ。一瞬の隙を突く。それが出来れば、あれは、なによりの武器になる」

髪に指を絡め、かきあげるようにしてくるのに、面倒でそのままにさせて、されるがままになっている雲雀。
ふっと影が出来て、目を開けると、驚くほどの至近距離に顔があって、雲雀の頭上に右腕を置き、左手を突っ伏すように立てたまま、覆いかぶさるようにして、男が顔を近づけてきた。
最初は、あまりにも自然な動きに、何をされているのかが分からなかった。
触れるような、戯れるような、掠めるような。
生暖かい息が気持ち悪い筈なのに、何故だかすごく熱くて、なんだこれは、と思っていたら、ぐっと入り込むようにして、深く唇を重ねられていた。
濡れた、やけに生暖かいそれが、ゆっくりと雲雀の唇に押し付けられてくる。
他人の体温など、ことそれが息ともなると、気持ち悪いだけのはずなのに、何故だか雲雀は、咄嗟に動くことが出来ない。
触れた男の唇は、少しだけかさかさしていて、そして何故だか、痺れるほどに熱かった。







あの時も、ゆっくりと離れた男に、これはなんだ、と聞いたはずだ。
普段、聞かれなくてもべらべらと、余計なことまでよく喋る筈の男は、何故だかやけに歯切れが悪く、あー、とか、うん、とか、殆ど独り言のような呻き声を発した後、早々に退散してしまっていた。
それきり、まるでそんな素振りも見せずに、また蒸し返すような言葉もなかったが、それが尚いっそう、雲雀を苛立たせた。
まるで訳が分からなかった。
戦いたい、という理由が大部分を占めていたのは本当だ。
だからこそ、男の誘いに乗り、わざわざイタリアまでやってきた。
けれど、それだけではないのも……あの日の屋上の、答えを知りたいのも、そのためにやってきたというのも、紛れもない事実だった。
はぐらかし、答えないディーノが憎らしかった。
はぐらかせる隙がある、所詮は勝てない自分が悔しかった。









タキシードなど、見るのも着るのも生まれて初めてのことだったが、見よう見まねで着て出て行くと、待ち構えていたディーノは、小さな間のあと、ふわりと、あの、花が綻ぶような笑みを浮かべた。

「思ったとおりだ。よく似合ってる」

言って、やんわりと手を回してきて抱き寄せると、髪に触れるだけのキスをしてくるディーノ。

「急ごう。開演まで間がない。今日の演目は『Barbiere di Siviglia』 邦題『セビリアの理髪師』だ」

用意された車に乗り込み、オペラ座へと向かった。







ミラノ・スカラ座。
ローマのオペラ座と並ぶ、イタリアを代表するオペラ劇場である。
一七七八年に建築家ジュゼッペ・ピエルマリーニの設計で完成した新古典様式で、一見するとこじんまりとした風にも見える質素な建造物だが、一旦中に入れば、やはり歴史の重厚感は十分に伝わってくる。
歴史ある、オペラハウスだった。
殆ど席に着くと同時に始まった演目は、当然イタリア語で何一つ意味は分からなかったが、身振り手振りと表情、歌の曲調から、おおよその内容は理解出来た。
三時間以上に及ぶ演目は、途中、幕間の休憩を挟みつつも、あっという間だった。
幕間でもそうだったが、部分の大まかな所は、ディーノが解説してくれた。
終わってからも、解説がてら、話し込むようにしながら、席を立ちロビーに出ると、ロマーリオと部下一人が、すっと傍についた。
スカラ座を出る頃には、その人数は、五、六人に増えていた。
一体どこで控えていて、どのタイミングで出てくるのか。
まるで気配を感じさせず、いつの間にか、気付けば傍についている。
弱さゆえの群れではないことは分かる。
けれど、いい加減、こうも群れる必要はあるのかと。
雲雀は半ば、苛立ちさえ感じ始めるのだ。
群れるのは嫌いだ。己の弱さを補うための、弱者の防衛策でしかない。
ディーノは確かに強い。
けれど、その下に控える者たちが、こうも群れてばかりなのであれば、所詮は弱者の集団でしかない。
この時までは。そう思っていた。








スカラ座の正面口を出て、広場を抜け、横付けされた車に乗り込むまでの、距離にすれば、ほんの数百メートルもない筈の間だった。
最初にそれが聞こえてきた時、一瞬何かの破裂音かと思った。
けれど、続けて二回、今度ははっきりと聞こえてきたそれと、間髪入れずに女性の発する悲鳴、一斉に逃げ惑う人がき、そして、身じろぎするまでもなく、一瞬にして黒スーツの男達が、ディーノと雲雀を囲うようにして壁を作った。
何がなんだか分からずに、立ちすくむ雲雀に、ディーノが腕を掴んできて、強引に車に押し込まれる。
男達のイタリア語の怒声が飛びかい、ディーノもまた、雲雀には分からない言葉で、怒鳴るように何かを口早に告げている。
雲雀は、窓から外を伺う。
音が聞こえない分、逃げ惑う人の波が、まるで無音映画のように、どこか非現実に映った。
そして、人垣が割れるようにして、出来た空間に、倒れる何かが見え、目を凝らしてみるとそれは、あのジプシーの子供だった。
思わず、ディーノを見やる。
ディーノもまた、それに気付いたのだろう、僅かに身じろぎし、けれどそれだけだった。

「……流れ弾に、やられた、か」

ロマーリオが、呟くように言う。

「ボスが出てくるのが見えて、駆け寄る最中だった、ってとこだろうな。……どうする?」

それは、このまま捨て置くのか、それとも戻って助けに行くのかを、ディーノに問う問いかけだった。
雲雀は一瞬、僅かにだが違和感を覚える。
なにがとは分からなかったが、今、この場で、この言葉を聞くことが、酷く不自然のことのように思われたのだ。
一体なにが……と、自らの感覚の違和感に問いかける雲雀は、続くディーノの言葉で、その違和感の訳を悟るのだ。

「……いい。出してくれ」

「si ボス」

ディーノの言葉を合図に、車が急発進で滑り出す。
雲雀はディーノを見る。
視線に気付いたのだろう。
ディーノは雲雀を見てくると、笑った。
それは、笑みとは明らかに違う、口の端を奇妙に歪めた表情だった。

「恭弥はオレを、なんだと思ってるんだ? オレは五千人の部下を束ねる、マフィアのボスだ。子供の一人や二人、巻き添えになったくらい……なんとも思わねえ」

違和感の訳がわかった。
どうするなどと。
このお人よしに聞く必要があるのか。
戻るという言葉が出てくると、当然のように思っていた、自分の無意識の思い込みが感じさせる、それは違和感だった。