04. 4day 14:00

目が覚めると同時に、強い空腹感を感じ、それは普段、寝過ごす、という経験がない雲雀にとっては、ほぼ初めて知る感覚だった。
リビングへと続くドアから顔を覗かせると、あると思った群れの気配は殆どなく、あったのは、一人、二人の男と、あのロマーリオと呼ばれる男だけで、ディーノの姿はなかった。
それで、声をかける。

「あの人は?」

へなちょこ、と呼ぼうと思って……さすがに辞めておいた。

「おっ、ようやっと機嫌直ったか」

ロマーリオが、振り返ってきて、ニヤリと笑ってくる。

「別に、機嫌悪かったわけじゃないんだけど」

「ははっ、腹減ったろ。昨日の夜から、こもりっきりだったもんな。なんか食うか。ついでに、ボスにも食わせてやってくれ。ったく、相変わらずストライキたあ、ガキくせえこと、してくださる」

「ストライキ?」

問い返す雲雀だが、それには答えず、ロマーリオは苦笑しながら肩を竦める。

「あんま、あの人をいじめないでやってくれ。ボスは、よくやってる」

「だろうね」

ロマーリオは、意外そうな顔をした。

「否定するかと思ったぞ」

「よくやってんじゃないの? へなちょこだけど」

雲雀は肩を竦める。

「だいたい、あの人もあなたも、僕をなんだと思ってるの? 人殺しはよくないって、泣き喚くとでも?」

「……いや、それ、は……」

「あの状況下で、戻るなんて馬鹿だ。あの時は、ああする以外、なかったよ」

「……それ、直接ボスに言ってやってくれや。多分、食欲なんか、あっという間に取り戻すぜ」

ローマリオは笑って、ディーノの部屋を顎で示した。

「昨晩帰ってきて以来、食事も取らねえで部屋にこもってる。お前と一緒だ。初めてのことじゃねえんだし、いい加減慣れてくれねえとな」

言いつつも、まるで困ってる風には見えないロマーリオだった。
くるりと踵を返し、迷うことなくディーノの寝室へと足をすすめる雲雀に、背後から、ロマーリオが追いかけるようにして、声だけを投げて寄越してきた。

「恭弥っ」

「……なに」

若干の不機嫌を含ませつつ、振り返って問う。
ロマーリオは、それこそ、にやりと音がしそうな勢いで笑った。

「お前……やっぱ、むいてるな」

「なにが」

「マフィアのボスの愛人」

「死ねば?」

「ははは」

ロマーリオの笑いが、背後から、いつまでも続いていた。








申し訳程度にノックして、中からの返事を待たずに、ぶち破るようにして、ドアを開け放した。
中は、雲雀の部屋を少し大きくしたような作りになっていて、ベットの端、こちらには背を向け、立てた片膝に顔を埋めるようにして、微動だにしない男の後姿があった。
小さく丸まるような背中は、一瞬だけ、びくりと震えたが、それきり、振り返ろうともせず、声だけが、おざなりに告げてくる。

「……起きたんだな……わりぃ、ちょい、すぐには動けそうにねえから……どっか行きたいトコとかあんなら、あっちでロマーリオに、言ってくれっか」

「観光ならいらない。それよりも、戦おうよ」

「……っ」

後ろ姿だというのに、男が瞬時にして苛立ったのが、手に取るように分かった。

「約束だったよね。一日一回は、戦ってくれるんだろ?」

「……恭弥……な? いいコ、だから……」

「マフィアってのは、約束の一つも守れないの?」

その言葉がきっかけになった。
ディーノが、弾かれたようにして、振り返ってくる。

「戦いってのは、そういうもんじゃねーだろうがっ!」

「なにが違うの? 強くなりたいから戦うんだろ? それ以外になにがあるの」

「……お前は、なにも分かっていない……っ」

「うるさいよ。だったら、戦おうよ」

「……こ、の……っ!」

弾かれたように立ち上がる男よりも早く、懐に詰め寄り、トンファーを振り上げる。
咄嗟に身を翻して避けた男に、追いすがるようにして、距離を縮めたら、いつの間にか取り出していた男の鞭で、トンファーを封じ込められ、もつれ合うようにして、床に倒れこんだ。
上に下にと転がり、互いに喉元を押さえようと躍起になる。
やがてディーノが、雲雀の上、馬乗りになり、雲雀の首元に鞭の柄を押さえつけ、動きを封じ込めた所で、終わりだった。
荒々しく息をつき、しばし無言で睨みあう二人。
一瞬にも永遠にも思える、長い沈黙の後、やがてディーノが大きく息を吐き出すと、どさりと、仰向けに横たわる雲雀の横、倒れこむようにして崩れ落ちた。

「……ずるいぞ。こういうやり方は、余計、オレが惨めになるだけ、だろうが」

「……なにがだよ」

「オレは、ひたすら甘やかされたいタイプなんだ。こういうのは、趣味じゃねえ」

「だから、なにがってば。あなたは耳が聞こえないの?」

「……慰めてくれてんだろ?」

ディーノは、頬杖をつくようにして、至近距離から、雲雀を見つめてニヤリと笑う。
間髪入れず、素手で殴られ、大業に殴られた箇所を押さえて呻いていた。

「なんだよー、なにすんだよー、ひでえっ! 愛が足んねえぞっ、恭弥っ!」

「最初からないよ、そんなもん」

言いざま、もう一度殴る。
腹が立つことに、先程あれだけ本気で向かっていった時は、触れることすら叶わなかった。
なのに今は、触るどころか、平気で殴らせ、しかも抵抗する素振りさえ見せない。
殺気を瞬時で出し入れし、あくまでも、雲雀に手を上げてくることは絶対ない。
男の余裕が憎らしくて、だからせめて、こういう時くらいは、一発でも二発でも多く殴ってやる雲雀だった。

「……よく懐いてくれる、いいヤツ、だったんだ」

一瞬、なんのことかと迷うが、昨夜の襲撃の際の、あのジプシーの子供のことを言っているのだと気づき、だから黙って、聞いてやる。

「ジプシーってのは、大変なんだ。貧しいから、国にはいられない。でも出稼ぎに来た所で、出来ることなんて限られてる。スリと犯罪にしか居場所がない。……なんとなくだが、親近感覚えて、な。身なりは貧しいけど、よく笑う子供だった……」

それきり、押し黙ってしまう。
雲雀は、ゆっくりと起き上がる。
その腰元に縋りつくようにして、ディーノが腕を回してきた。

「マフィアであることに迷い、苦しんだ過去は、もう通り過ぎた。一度決めたからには、貫き通す覚悟も出来ている。それでも、こういうことがあると……正直堪える、な。守りたいものを作れば作るほど、それらは、手の隙間から、零れ落ちていく……」

まるで、守るものを作ることが、悪いことであるかのような言い方だった。
それは違うと思ったので、雲雀は、しばし迷いつつも、言ってやる。

「守るものは僕にだってあるよ」

ディーノは一瞬、何を? と片眉をあげ、しばしの間のあと、ああ、と力を抜いた。
笑った。それは例の、ふわりと綻ぶ、柔らかい笑みだった。

「そうだな……ホント……そう、だな」

皆、同じなのだ。
大なり小なり。
皆、それぞれが、それぞれのフィールドで、守るべきもの達を抱えている。

「守りたいものがあるなら、強くなればいい。ただそれだけだ」

「恭弥は……強いな」

「なに当然のこと言ってるの」

「はは、確かに。強くない恭弥は恭弥じゃない。優しい恭弥も、な」

なにを? 訝しげに眉をしかめる恭弥に、ディーノは、頬づえをつきながらちょいちょいと指を差す。
指先に視線を送ると、いつのまにやらディーノの頭を抱えるようにして膝枕をしてやる形になっていて、雲雀はしばし考えこむように動きをとめたあと、思いっきり男の頭を床へ落とす。
がごんっ。ものすごい音とともに、ディーノが悲鳴をあげた。

「っつ! 恭弥、ひでえ!」

「疲れた。もう寝る」

「だーっ! 待て待て! ちょい待ちっ! お前また、なんも食ってないだろ! いまロマーリオに言って、なんか届けさせっから!」

「あなたもだろ、ストライキ」

「ストライキ? なんだそりゃ? ともかくあれだ、よく食ってよく寝て、少しは太れ。そんな細い体じゃ、倒せるもんも倒せないぞ」

ばたばたと、おおい、だれか、食いもん持ってきてくれ! 早くしないと恭弥が寝ちまう!
ドアから顔を出し、向こうにむかってなにやら叫ぶディーノ。
まったく騒がしいったらありゃしない。
雲雀は呆れつつも……なぜだろう、どこか息を吐き出している自分を不思議に思うのだった。







ディーノの一声に、嬉々として食事を用意した部下達の前、ディーノは慌しく雲雀と共に食事を取り、出掛けていった。
後ろ髪を引かれるかのように、何度も振り返りながら、

「恭弥っ、待ってろよなっ、すぐ戻るからなっ!」

と喚きながら出て行ったディーノと、食事を終え、優雅に食後のティータイムを決め込む雲雀、そして、それに付き合う形になった、髭の男。
同席こそはしないものの、傍に寄り添うようにして立つロマーリオは、ニヤニヤと、告げてくるのだった。

「思った通りだったな。ボスは、誰かの世話を焼いてるときが、一番イキイキするんだ」

「ボスに、向いてないんじゃないの」

「ああ、まったくだな」

屈託なく笑うロマーリオだが、雲雀は知っている。
誰よりもボスを慕う連中で寄り集まってる集団。
これだけ一緒にいれば、嫌でもわかる。
こっちにきてそう経ってはいないが、ディーノの人となりも、彼を取り巻く環境も、伝わってきていた。
もっともそれこそが、わざわざこちらに雲雀を呼び寄せた、ディーノの思惑でもあるのかもしれないが。
そこまでを思い、途端、雲雀はムカムカしてくる。
これではまるで、いいようにやられっぱなしではないか。
そう思ったら、いてもたってもいられなかった。

「ねえ。へなちょこは、いつ戻るの?」

「あ? …ああ、悪いな、どうしても外せない用事なんだ。まあ、暗くなる前には戻るはずだ。もう数時間もない。それまではここで、大人しくしててくれな」

「……ふーん」

この時、ロマーリオに少しでいい、雲雀という人間に対する予備知識のようなものがあれば、あるいはディーノの十分の一程でいい、洞察力があれば、果たしてあんなことにはならなかっただろう。
しかしそれを求めるというのも酷な話だった。
雲雀はとにかく、尋常では計りきれない、未知の生き物だったのだから。







ロマーリオがふと席を外した隙を見計らい、適当に立ち塞がる部下数人をトンファーで地に沈め、雲雀は正面玄関から堂々と、ホテルを後にした。
知らない地、知らない言葉だったが意外になんとかなるもので、雲雀は一人、街中を散策する。
時刻にして、夜の七時近くだというのに、辺りは明るく、人も多い。
イタリアでは、日が沈み、完全に辺りが暗くなるのは、九時、十時近くだという。
だから、七時前といえば、まだ日本でいうところの、夕方近く、街中が一番活気に溢れる時間帯である。
立ち塞がる部下数人を沈める際、適当に金銭を拝借してきたから、手持ちは困っていない。
それで、見よう見まねで店に入ってみた。
言葉などまるで分からなかったが、給仕に出てきた年若い女性は、しばしのやり取りのあと、苦笑しながら、何かを運んできて、口をつけてみたらそれはオレンジジュースだった。
子供に見られたのだろうかと一瞬むっとしたが、喉が渇いていたので有難く頂戴することにする。
軒下に連なった、カフェテラスでしばし、街中を眺めながらぼんやりとしていたら、声を掛けられ、見上げると、見知らぬにやけた男だった。
ラフな、いかにもイタリア人らしいだらしない格好をし、馴れ馴れしい笑みを浮かべている。
何かを言っているが、イタリア語なので当然わからず、雲雀は頬杖をつき無視を決め込む。
そしたら腕を掴むようにして触ってきたので、殴りつけて立ち上がる。
さっさと歩きだしたら、何かを怒鳴るようにして、男は追いかけてきた。
先程よりも、大分荒々しい声だ。
男の矜持を踏みにじってしまったのだろう。
普段なら、問答無用で咬み殺してるところだろうが、さすがに知らない土地だけに、警察へのコネクションもなく、面倒はごめんだった。
無視し続けるが、それがさらに煽っているようで、男が、どんどんとヒートアップしてくるのが分かる。
いよいよこれは、本格的に地に沈めてさっさと逃げるしかないか、と、普段の雲雀からしたら、とんでもない長さでの辛抱をした挙げ句の結論だったわけだが、そうして振り返った先にあったのは、わらわらと、いつの間にか増えている男達と、こちらに向かって向けられている銃口の数々だった。

「あんただろ。キャバッローネの跳ね馬が入れ込んでるってのは」

ホテルを出て以来、初めて聞くことになる、発音は怪しいが、きちんとした日本語だった。

「……だったら?」

「ちょっと、顔、貸してもらえるか。なあに、悪いようにはしない。女子供には親切なんだ」

自分で言うやつにはろくなのがいないってのは、古今東西、万国共通の認識で間違いなさそうだった。








「ボス! 恭弥が見つかったぞ!」

言いざま、リビングに飛び込んできた部下に、ディーノはがばりと、沈み込んでいたソファーから立ち上がった。

「なにっ! どこだ!」

「それが、目撃情報だと、黒ずくめの連中に車に押し込まれてるとこだったって……」

「……ガンビーノ、だな」

傍に控えていたロマーリオが、呟くように言う。
ディーノは、ああ、と、頷き返した。

「小物だって捨て置いたのが気に食わなかったんかな? どっちにしろ、キャバッローネ相手にこうも堂々と喧嘩売るたあ、利口なやつらじゃなかったってことだけは証明されたな」

肩を竦める。
ロマーリオは、がっくりとうなだれた。

「すまねえ、ボス。俺がついておきながら……」

「まあ、しょうがねえだろ、あの恭弥だ、そもそも、大人しくしてる筈がなかったんだ」

笑う。実際、雲雀の逃走劇を、戻ってすぐに聞かされても、驚きはあっても、怒りはなかった。実に、雲雀らしいと思っただけだった。

「それにしても……すっかりしおらしくなったように見えたんだがなー」

ロマーリオが、小さく呟くようにして言う。
自らの失態もあってか、その口ぶりは珍しく歯切れの悪いものだ。
神妙な、長年の部下の様子がどこか可笑しくて、ディーノはくすりと笑った。

「しおらしく? あいつが黙ってる時は、まず間違いなく、なんか企んでる時だぜ」

肩を竦める。

「それにしても、なんで、恭弥、なんだろうな」

それは、いつどこから情報が洩れたのか、そもそも、キャバッローネを強請るのに雲雀を使うなどと、どこからの入れ知恵だと、そちらの方が問題に思われた。
キャバッローネから情報が洩れているのであるとすれば、問題は、単なる誘拐だけでは済まされない。
裏切りはマフィアにとっての絶対的タブーだ。
そちらの方を、心配したのだったが、深刻な表情をするディーノに対し、ロマーリオは実にのんびりとした顔で、

「そりゃ、あれだけあっちこっちに連れ回してりゃ、誰にだってわかるだろ。キャバッローネのボスのお気に入り。ちょっとした御披露目会、みてえなもんだったからな」

「なんだろ、平和ボケしてたんかな」

「浮かれてたんだろ、いまのあんたは、恋する盲目男、状態だ」

「なんだよ、それ。そんなんじゃ、ねーよ」

軽く笑うディーノに、しかし、ロマーリオはじっと、見ながら切り込むように言うのだ。

「なら、なんだっていうんだ?」

「あいつは、可愛い弟子だ。それ以上でも、それ以下でもない。前にも言ったろ?」

「ああ、聞いたな。んで、そのときにも言ったな」

「『本当に、それだけか?』 ……おかしいぜ? お前も、他のやつらも……それ以外に、なにがあるっていうんだよ」

「おかしい、ねえ……まあ、あんたが言うならそうなんだろうよ。俺だけじゃない。若けぇ奴らにも、ガンビーノの奴らにも、恭弥をさらったのはお門違い、うちのボスは恭弥をさらわれたくらいじゃ、びくともしねえぞって、触れてまわらねえとな」

「なんだよ、やな言い方するなよ。……大切な教え子だ。助けに行くに決まってるだろ」

「……なあ、ボス」

話に割り込むように、飛び込んできた男が、切り出してきた。

「盛り上がってるとこ悪いが、早く動かなくていいのか。ガンビーノっていやあ、最近、手段選ばずで、きなくせえ噂で持ちきりんとこだぞ。すぐにでも動かねえと……」

「あーいい、いい。大丈夫、そのうちふらっと、戻ってくるから」

「は?」

戻ってくる? 何を言ってるのだ、と眉をしかめる部下に、ロマーリオが、そうだ、と暢気に声を上げて、

「そうだ、ボス、賭け、しねえか。日付が変わる前に恭弥が戻ってくるなら、俺の勝ち。翌日まで持ち越すようなら、あんたの勝ちってことで、褒美はバカンス一週間だ」

「なにっ! そりゃ、俺に不利な条件じゃねえかよ! 俺だって、今日じゅうに賭けてえ!」

「ボスが、ちっちぇえこと、ガタガタ言ってんじゃねえっ」

「ったく……わーったよ!」

しかし、賭けは、結局引き分けに終わることとなる。
日付が変わる前ぎりぎりの時刻ではあったものの、雲雀からディノへの直接の電話は、

「帰り方わからないから、迎えに来て」

といったもので、

「……なあ、この場合、どっちの勝ちになるんだ?」

「さあ……」

あくまでものんびりと呟く、ディーノ、そしてロマーリオなのだった。