「そうだ。その調子だっ」
ディーノの、怒号に近い声が続く。
「間を詰めろっ、懐に入り込めっ。お前の武器は、小柄な体と俊敏さだ。それを最大限に生かすんだ。相手に体制を整えさせるな! 畳み込めっ、……そうだ、その調子だっ!」
いいぞ、と言いながらも、まるで追い詰められている様子を見せない。
相変わらず余裕のある男が憎らしくて、雲雀は、渾身の力でトンファーを振り下ろす。
殆ど休憩なしで戦い続けて、数時間が過ぎていた。
何度となく、男が休憩を提案してきたが、雲雀は無視し続けた。
どうしてだか、辞める気になれなかった。
自分でも説明できない衝動に突き動かされるようにして、雲雀は、体を動かし続けていた。
「手首だっ、手首を使えっ! 鞭もトンファーも、手首のスナップが命になる。返したときの反動を利用するんだ。無理に押すと、手、自体をやられるぞ! 力任せじゃねえ、相手の力を利用するんだ。向かってきた相手がいたら、一旦引いて、流してから押す。こうだ、わかるか」
言って、ディーノが体自体を一旦引いて、くるりと雲雀の懐に潜り込んでくる。
素早い動きに咄嗟に止まることが出来ず、雲雀は強い衝撃に、思わず前のめりに膝をついてしまう。
「どうだ、今、オレは殆ど力を使ってねえ。お前の力を流して返しただけだ。これだ。相手のいる戦いは、これが出来る。だから面白い」
面白い……確かに面白かった。
打てば響くような男の反応も、一向に崩れることのない、男の強さも、すべてが面白かった。
……ああ、だからか。
雲雀は今、心底、この時間が終わることを惜しんでいる。
今までかつて、なにかに思いを残すことなど、殆どなかった。
けれど今は思う。
少しでも、この時間が長く続けばいいのに、と……。
「どうだ、楽しいだろ」
男は、まるで雲雀の気持ちを見透かしたかのように、訳知り顔で、そんなことを言った。
「お前は群れが嫌いだと言う。確かに、集団は煩わしさも多い。失うものも多いだろう。弱さゆえの醜さもある。けれど、こうやって、相手の空気を計りながらの戦いは……一人では、出来ない」
ディーノは、手を止め、ふっと笑った。
「群れろとは言わない。仲間を持て。幸い、お前は、望む望まずに限らず、ボンゴレの守護者となった。ボンゴレには、ツナもリボーンも、山本だって、スモーキンボムだっている。あいつらは、これからまだまだ、強くなる。あいつらと交えることは、お前にとって力になる」
「……知らない。いらないよ、そんなもの」
「守るものが、あるんだろ? だったら強くなれ。お前の言葉だ。強く」
「……まるで、遺言だ」
雲雀としては、軽く呟いたつもりだった。
けれどディーノは……少し間のあと、ふっと笑った。
どこか悲しげな笑みだと思ったのは、きっと気のせいではない。
それで分かってしまった。
この男は、これで終わりにするつもりなのだと。
「よく、食べて、寝て、鍛えろよ」
「……ねえ」
「それから、風呂のあと、髪乾かさないまま寝るのとか、なるべく辞めろよな。お前、冷え性なんだから……」
「ねえってば」
「今夜は、最後の晩餐だ。思いっきり、盛大にやろうぜ」
言ってディーノは、晴れやかに笑った。
訳の分からない苛立ちと怒りと戸惑いと、さまざまな感情でぐじゃぐじゃになったまま、雲雀は、大きすぎるベットで、丸くなって横になっていた。
途中、何度かうとうとし、目を覚ましたら、至近距離にディーノの顔があって、手を伸ばしてきて額に触れた。
「大丈夫か? 疲れが一気に出たのかもな。辛いトコとか、あるか?」
「……そんなんじゃ、ないよ」
そんなんではない。
具合が悪いのだとか、気持ちが悪いのだとか。そんなんではないのだ。
説明出来ない苛立ちで、とても起き上がる気になれないだけだった。
「ディナーはキャンセルしといた。最後の夜だ。ゆっくりしよう。なにか口に出来そうか? 食べられるなら、持ってこさせるけど……」
「いらない。食欲ない」
「そっか……そしたら、せめて、なんか飲め。脱水症状起こすぞ」
「いらないよ」
本当に、なにもいらないのだ。
欲しいものなど、なにもない。
「悪かったな。少し、無茶させちまったかもしれねえ。7days とはいえ、実質五日間。限られた時間だけに、あれもこれも、見せたいものばっかで、振り回しちまった」
「違うよ」
そうではない。まるで、あっという間の五日間だった。
生まれて初めて飛行機に乗った。
イタリア料理が、オリーブオイルをふんだんに使う割には、しつこくないことを知った。
水よりもアルコールの方が安い国なんてものが、本当にあるのだと驚いた。
日本では水など、無料の代名詞として使われるくらい、溢れかえっているものなのに。
日差しは、国によってその強さを変える事も、ただ吹き抜ける風の気持ちよさも、空の青さも、すべて……すべて、この七日間で知りえたことだ。
来なかったら、知らなかった。
謝る事など……なにもないのだ。
「元気でな。丈夫に見えて、お前はちょっとした湿度の違いで、すぐ、セキ、してたろ。気管が弱いんだな。無茶は、するんじゃねえぞ」
「……うるさいよ」
まるで、子供に言い聞かすかのような物言い。
ああ、最後までこの人は子供扱いが抜けきれない人だった。
「なんか欲しいものとか、あるか? あとでジャポーネまで送らせる。なんでもいいぞ。まあ、あまりにも法外なものだと、約束できねえけど……」
「……いい」
「え?」
「なにもいらない。あなたがいれば、それでいい」
言って、頬を撫でるように伸ばしてきた男の手の甲に、自らのそれを重ね、目を閉じた。
雲雀にしてみれば、何気ない仕草だった。
寝起きで酷くぼんやりとしていたのもあるし、行為自体に意味を持つことなど、考えもしなかった。
だから、のしかかってきた重みも、頬にかかる熱い息も、最初は何がなんだか、分からないでいたのだ。
目を開けると、まず飛び込んできたのは、零れるような金色の髪で、あっと思ったら、殆ど噛み付くかのような勢いで、キスをされていた。
ああ、またされるのか、と思う。
熱を持った唇が重なってきて、濡れたぬめりが口内を進入してきて思うがままに蹂躙してくる。
全身に痺れるような電流が走り、背中がぞくりとする。
絡めあう舌は痺れさえ伴うもので、力が入らなくなる。
何故だか、抵抗することが出来なくなる、不思議な感覚。
けれどこの時は、それだけではなかった。
男の唇は、雲雀のそれを弄んだあと、気付けば流れるようにして、耳元へ移動していて、耳たぶを思いきり舐められた。
びくりと、雲雀は全身を揺らす。
なんだ、これは、と思うまでもなく、男の熱い息づかいが、耳からはっきりと吹き込まれてきて、瞬間雲雀は全身を粟立たせる。
「ちょ……な、に……っ」
思わず洩れた言葉に、男は答えることなく、熱いぬめりを耳元に押し付けてきた。
そして、ずっしりとした重みがふっと抜け、身じろぎしようとするまでもなく、男の手が、確実な意図を持って、雲雀の下腹部に伸びてくる。
布越し、はっきりとそこを揉みしだかれ、雲雀は初めてぞわりと背筋を凍らせた。
「……ゃ……だっ!」
渾身の力を込めて、押し返す。
ふと重みがなくなり、雲雀はぼんやりと目を開ける。
ディーノは、ゆっくりと身を起こしていた。
雲雀は呆然と起き上がる。
「……ねえ」
男はびくりとしつつも、目を合わせてくるとにへらと笑う。
「ねえ、今の……なに?」
男は、困ったように笑い、それだけだった。
「ねえ、答えなよ。今のは、なに」
「……ごめんな。言えないんだ」
それは卑屈なまでの、笑みだった。
「卑怯だね」
「ああ、卑怯だな」
「男らしくないよ」
「ああ、男らしくないな」
「あくまでも、言わないつもりなんだ?」
「それが、ファミリーを背負うってこと、だからな」
ディーノは両手を広げて笑った。
それは、今までで一番の、むかつくまでに清々とした笑顔だった。
「明日の空港、オレは送らないよ。ここでお別れだ。この7days 本当に楽しかった。来てくれて嬉しかった。ありがとうな」
チャオ。
それは、濃かったこの七日間をまるで断ち切るような、爽やかなまでの、さようならだった。