06. 6day 10:00

「恭弥、いま、ホテルを出たぜ」

ロマーリオの報告に、窓から外を眺めたまま、ディーノは振り返ることはなかった。

「そっか。ご苦労さん」

「見送らなくてよかったのか」

「いらねえだろ。オレの優秀な部下達が、空港まできちんと送り届けてくれる。信頼してるんだ。そういや、恭弥がお前のことを褒めてたぞ。よく出来る、いい部下だって。僕の組織に引き取ってあげてもいい、だってさ。いっそ、ロマーリオ、もらわれてくか?」

「それもありだな。少なくとも、うちのボスよりは、付いていく甲斐がありそうだ」

「はは、なんだ、そりゃ」

軽口の最中だった。
部下の一人が、駆け込んできた。

「……大変だっ」

「どうした」

「逃げられた」

「なに?」

空港へと雲雀を乗せて、部下達の出す車がホテルを出て、数十キロも離れていない所だった。
日本語でなにやら訴えてくる雲雀に、さすがにVIP扱いの客人だ、むげにも出来ず、十分に警戒をしつつ、車を止め、後部座席へと顔を覗かせた運転手は、雲雀のトンファーで、モノの見事に地に沈められた。
咄嗟に懐の銃に手を伸ばす他の男達の抵抗も叶わず、その場の全員を地に沈め、雲雀はふらりと車を降り、街中に消えていったのだという。

「……あんの、くそガキゃあ……っ」

流石に低く呻くしかないディーノに、けれど傍らのロマーリオは、くしゃりと表情を崩した。

「僅か、数日の間に、大人になったなーあいつも」

「……なに、呑気な事言ってやがんだっ」

呻くようなディーノの声は、低く据わっているというのに、ロマーリオは笑うような声尻を変えない。

「今までのあいつなら、間違いなく、半殺しにしてただろ。当て身なんて技、覚えたんだな。ボス、修行の賜物だな」

「くそっ……車、出してくれ」

「おっと、やめとけよ、ボス」

「なっ」

咄嗟に弾かれたように振り返る先、ロマーリオは、声の調子とは裏腹に、酷く真剣な顔をしていた。

「恭弥の事なら、俺らが全力で探し出して、きちんと空港まで送り届けてやる。だから、あんたは行くな。分かってんだろ? ここで綺麗に終わるのが、一番なんだ。追っかけてどうする。折角断ち切ったものを、未練が増すだけだ」

「ロマーリオ……お前……」

唖然と呟くディーノに、ロマーリオは肩を竦めた。

「必死な思いで断ち切ったんだろ? それがあんたの答えだったんだろ? ならそれを貫けよ」

その時だった。
新たに別の部下が、携帯を片手に飛び込んできた。

「ボス、電話だ」

出ると、それは恭弥だった。

「恭弥っ! お前っ、今どこに……」

『わからない。でも、ドゥオーモが綺麗だよ』

「お前……わかった、そこ、動くな。今から、迎えに行くから…」

『駄目だよ。来ないで。来たら、咬み殺すよ』

「恭弥……」

『これだけを、さ。言おうと思ったんだ』

「……きょう、や?」

『仔牛の脳ミソ、は、まずかった』

ディーノは、一瞬の沈黙の後、笑い崩れた。

「あはは、なんだそりゃ。それを言うために? わざわざ?」

『あれは、人間の食べるモノじゃないよ。あれなら、くさやの方が、まだいい』

「くさや? なんだそれ?」

聞き慣れない日本語に、ディーノが首を傾げるのに、

『知らないの? 同じく、人間が食べるモノじゃない、代物だよ』

「納豆みたいなもんか? あれは確かになんっつーか……好んで食べたい代物じゃねえよな」

『全然違うよ。第一、納豆は美味しい』

「でーっ! あれが美味しいだと? 恭弥、やっぱりお前、味覚オカシイぜ!」

『あなたに言われたくないよ。砂糖と塩の違いも分からないくせに』

それは、先日の食事の折、塩と間違えて砂糖を振りかけながらも、しばらくの間、その味に気づかず平然と食事を続けていたという、ディーノの失態を指してのことだった。

「ばっか、あれはちげーよっ。分からなかった、んじゃなくて、たまたま間違えただけで……」

『どうだか。しばらく、気づかなかったじゃないか』

「そ、それは、恭弥を驚かそうとして、だなあ……っ!」

そこまでを、勢いづいて喚くように言った時だった。
小さな沈黙の後、見えないけれども、確かに恭弥の……恭弥の笑う気配が、電話越しだというのに、はっきりと伝わってきた。

『本当に……驚かされてばかりだったよ、あなたには……最後まで、ね』

最後。その言葉は、驚くほどに、ディーノの耳に突き刺さった。
ディーノは、携帯を握る手に力を込める。

「な、なあ、きょ、恭弥……」

『この数日間、楽しかったよ。苛立つことも、腹立つことも沢山あったけど、見るもの聞くものすべてが新鮮だった。新しい世界を見せてくれたあなたには、感謝してる』

「き、恭弥、あの、さ、オレ……」

堪らず受話器を握り締めるディーノに、続けて電話口から聞こえてきた声は、初めて聞く、穏やかなまでの雲雀の声だった。

『Arrivederci さようなら、ディーノ』

言って電話は切れた。
ディーノは、しばらく、呆然としたまま動けない。
ロマーリオの言葉が続いた。

「結論は出たな。さ、俺らは恭弥の捜索に出る。あんたは、仕事に戻ってくれ。この数日、あんた殆ど使い物にならなかったからな。これからはバリバリ仕事してもらうぞ。……仕事してりゃあ、いろんなことが、どうでもよくなる。それが、時間の経過ってもんだ。あんたにも、俺らにも、守るものがある。そうだろ? ボス」

ディーノは動かない。動けない。
ロマーリオは、小さくため息をつくと、背後に控える男達に合図をし、自らもまた、雲雀の捜索のために、踵を返しかける。
それを、制止するようにして。

「……駄目、みてえ」

「あ?」

訝しげに振り返るロマーリオは、自分達のボスを見、ああ、と思う。
長年の付き合いだ。気持ちなんてのは、顔を見れば手に取るように分かる。
ディーノは、どこか嘲笑うかのような、顔をしていた。

「言葉にしなけりゃ、なんとかなると思ったんだけどな。……悪いな、オレ、やっぱ、駄目みてえだわ」

言って、ディーノはそれきり、振り返りもせずに、飛び出していくのだった。







「……どうする、ロマーリオ」

まさに茫然自失の体で、呟くように問いかけてくるのは、背後に控えていた男達。
それに対し、肩を竦めるようにして、ロマーリオは振り返ると、

「どうするも、なにもなあ……仕方ねえ、ボスにバレない程度の距離で、若いの何人かで、後を追わせろ」

「si 」

身を翻すようにして、慌しく出て行く男達。
それを見やりながら、ロマーリオは、懐から煙草を取り出すと、火をつけ、大きく吸い込み、ゆっくりと紫煙をたちのぼらせる。
煙の行方を目で追い、盛大に笑みを浮かべた。

「だいたい、言葉にしなきゃ大丈夫だと思ってやがる時点で、青くさくてしょうがねえ。……言葉にしないことで、どんどん深まっちまう想いってのはあるんだ。そんなこともわからねえ辺り……ボスもまだまだだな」

「はは、確かに違いねえ」

傍らに立つ男達と顔を見合わせ、がははと笑うのだった。








雲雀はその頃、ガンビーノにとっつかまっていた。

「丁度よかった。むしゃくしゃしてたんだ。今ここで、一人残らず、咬み殺してあげるよ」

言ってトンファーを構える雲雀の表情は、長年闇の世界を生きてきた男達を震え上がらせるには十分の凶悪なもので、男達はまるで、自分達の一瞬ではあるが躊躇を悟られまいがごとく、ことさらに荒々しく銃を構え、怒号を発する。
場所にして、町外れの路地裏。
一般市民が通ることは殆どないスラム街だ。
戦いにはもってこいの場所だと、雲雀は嬉々として、舌舐めずりをした。
けれど、異国の地では初めてになるはずの戦いは、その機会を結局失うこととなる。
目の前の、数にしてざっと十人程度。
それぞれに銃を構えて立つ屈強の男達が、呻き声をあげて次々と地に沈み込んだ。
一体なにが? と咄嗟に判断に迷い、立ち尽くしたら、目の前の立ちはだかるようにして立つ影が出来て、それは見慣れた背中、見上げるほどの長身のディーノの背中だった。
ディーノが何かを、イタリア語で告げる。
それは、普段の、日本語で語る彼の口ぶりとはかけ離れた、早口で低音の、迫力を伴うものだった。
男達が、それぞれに、何かを喚きつつも、転がるようにして、退散していく。
それは、まるで映画で見るかのような、雑魚の逃げまどう姿そのもので、言葉が分からないだけに、まるでスクリーンの中のような光景にも見え、可笑しかった。
男達が一人残らず去っていっても、ディーノは微動だにしない。
まるで壁のように立ちはだかるその背中に、雲雀は思わず声をかける。

「なんであなたが、ここにいるの」

来るなと言ったのに。来たら咬み殺すとも言ったのに。
結局迎えに来たのか。最後の最後まで子供扱いかと、暴れるチャンスも奪われ、獲物も奪われただけに、怒りと苛立ちで瞬時に殺気を滲ませる。
けれど、振り返ってきたディーノは、思わず雲雀が動きを止めてしまうくらいの、怖い顔をしていた。